僕の想像力こそゼロだ

hozan2007-06-29

SFマガジン8月号、宇野常寛の「ゼロ年代の想像力」2回目は、前回に引き続き、憑き物落し。1回目は東浩紀を「10年遅い!」と逆説的に葬ったが、2回目でごみ箱行きになったのは、次の3つ。
宮台真司エヴァンゲリオンゴーマニズム宣言セカイ系は既に何年も前に終わっており、今や生き残りを賭けた「決断主義」の時代なのだ。
セカイ系葬送のため、ひきこもり系は全部ゴミ箱行きで、「NHK」の滝本もバッサリ。
本文中で、更科氏によるセカイ系のうまい説明がされている。
最後にアスカに振られないエヴァ
なーるほど。でも、セカイ系エヴァもどっちも古いのだと。確かにいまだに「エヴァエヴァ」言うのってどうかと思うし。そこは異論なし。ただ、ちょっと考えさせられたのは、「セカイ系はもう古い。終わっている。今は決断主義だ」と状況を語るとき、それを言っているのはだれなのか?ということだ。セカイ系は古くて、滝本が脚光を浴びたのは既にひきこもり系が終わったあとだった、というようなことが書いてある。いまだにセカイ系を支持しているのは、中年層なのだ、とも。
う〜む、ここで「実の世界」とか書いてしまうのはどうかとも思うのだが、この現実の世界が中年より上の世代で動かされている場合、「古い」「もう終わった」とはどういうことなのか。若い世代にとって、既に終わったトレンドだ、ということなんだろうか。中年がセカイ系に夢中だ、ということから今の世界を読むことは不可能なんだろうか。若い世代は既にそんな場所にいない、としても、中年が中学生の刹那的なトレンドに対応するはずもない。ヤマンバが流行したとき、中年はそれを追いかけたか?追いかけてないぞ。(追いかけてた人がいたら、ちょっと尊敬)着ぐるみ着て町の中をうろうろしたりたむろったりしたか?
思えば、自分も20才そこそこの頃は、時代の最先端を探って、何が新しいとか何が古いとか言ってたもんだ。今ではあまりそんなことは気にしない。この「ゼロ年代の想像力」でも「コードギアス」を取り上げて、若者の支持を受けたことをもって、そこから時代を語ろうとする。僕は、大勢の人が支持していることなんて、どうでもいい、むしろマイナスだ、と思っている。若者の大勢の支持、ということだけで言えば、今一番新しいのは「サザエさん」か「ドラえもん」ってことにならないか?若い世代(幼稚園の子とか)はきっと「コードギアス」なんかよりも「アンパンマン」の方を熱狂的に支持しているぞ。
世代や年代で新しさを語ることが、僕にはできなくなってしまったんだろうか。これ、すなわち、僕が新しさや、時代の流れから外れてしまった証拠なんだろうか。若い世代が上の世代に対して「もの申す!」と対決する、その意味がよくわからない。中年は中年で好きに語らせて、いろんなことを思わせておけばいいじゃないか。若い人は若い人独自の考えを出せばいいじゃないか。「いや、それではすまない」と世代間の対立を取り上げるのなら、そのジャッジは何がつける?最終的に幸せになった方の勝ちか?多くのことをより説明できた方の勝ちか?それは対立しないと得られないものなのか?
うむ。僕の考えが未整理である。整理できるんだろうか。そもそも整理しなくちゃダメなの?