終わっているのは何か

昨日(1/29)付けの読売新聞夕刊に「シュトックハウゼンの死」と
題する池辺晋一郎のコラムが掲載されていた。
シュトックハウゼンは昨年12月に亡くなった現代音楽家
気になったのは、編集部でおそらくつけたであろう見出しが
「頭で考えた音楽 前衛は終わった」だったことだ。
何かというと、すぐに「〜は終わった」とか「〜は死んだ」とか
言いたがる人々が存在している。
現代音楽はちっとも終わっていない。
つい先日も、ネットのニュースで「モー娘。もう終わった」と題する
記事を見た。
メンバーの名前がわからないから、という理由で「終わっている」なら、
僕にとってほとんどの音楽は終わっている。
視聴率が実際の人気とは無関係なことも、みんな知っているはずだ。
どんな物事もそう簡単には終わらない。
とっとと終わらせたいと考えている人がいるだけだ。

(付記)
このコラムで面白い仮説を2つ紹介している。
前衛は戦争の反省だとする説。
憎しみや怒りなどの感情の爆発が招いた悲劇を、理性で統御された前衛で
反省している、という。
もうひとつの説はもっと面白い。
音楽の歴史は、足の裏から頭に上がっていった、という説。
収穫のダンス(足の裏)から、宴席での音楽(腹)、叙情(胸)と来て、
頭で考える前衛へと上昇してきた。と、いう。
頭まで達したので、今度は胸に逆行しているのが現代の芸術だが、世界は
テロと戦いに覆われてしまった。
さらに逆行して、性器あたりの音楽が主流になったら面白いんじゃないか。